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御 由 緒 |
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特にその託宣(お告げ)の多さとその権威は国家の政治から氏族の興廃にも及び、常に時代の中心思想として仰がれて来た。 当宮にあっては、中でも厄除開運・交通安全・必勝守護・家内安全・縁結びの御神徳著しく、八柱の神の御神意相俟って霊験頗るあらたかである。 |
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当宮は、もと城山(末森城)の東北の麓、旧田代町字楠(現、千種区春里町2丁目南端)の地(現在地より300メートル程東北)に鎮座し、500年以上前から産土神として崇敬を集めて来たが、明治期村内の八幡社、浅間社、山神社、一ノ御前社、白山社を合併合祀した事で、非常に広い氏子の区域をもつ事になり、昭和11年氏子崇敬者の浄財寄進により、旧来から飛び地境内であった末森城址に遷座された。 末森城の築城 末森城は天文16年(1547)織田信長公の父、織田備後守信秀公が東山丘陵の南端に位置するこの地に本城として築城し古渡城から移った。この地は頗る要害の地で三河方面よりの松平(清康)・今川(義元)等への守りとし、弟信光の守山城との線を連ねて尾張に於ける東方の固めとしたものである。信長公は、那古野城を譲られた。 末森城には、信秀公・土田御前・信行(信勝)公・信包公・秀孝公・お市の方・お犬の方等が共に過ごしたと伝えられている。秀孝公は「たとえにも及び難き御方様」と云われる程の美男子であったが、14〜15才で事故死している。 織田信秀公の卒去 信秀公は尾張の覇者として次々に近隣を従えていったが、天文18年大志を抱きながら業半ばにして病みこの地において卒去した。信秀公の死により、信長公の弟の備前守(勘十郎)信行公が末森城の主となった。信行公の家臣には柴田勝家、林美作守などがおり、母の土田御前も末森城に残った。 信行公と信長公の諍い 信行公は信長公と争い、弘治2年(1556)稲生が原の戦い(→末森城哀史)に破れた。その後、永禄元年(1558)清須城にて病を装った信長公に誘殺された。以来末森城には主なく、ついに廃城となったという。信包公は後に柏原藩主となり豊臣家に仕えた。お市の方は小谷城の浅井長政公との間に三姉妹を儲け戦国の世を強く生き、その血は徳川家から天皇家へと繋がっている。お犬のかたは山城守護細川昭元へ嫁いだ。 城址の西北山麓に信秀公の廟山があったが、現在は信行公が父信秀公の菩堤を弔う為建立した桃巌寺(千種区四谷通)に移され信行公とともに祀られている。 城址には信行公が加賀国白山比メ神社から勧請した白山社が残ったが、明治41年楠の地に鎮座されていた当宮に合祀された。 末森城の構え 「200万人都市に残された奇蹟の遺跡」とも呼ばれる末森城は標高43メートル、東西約200メートル、南北約160メートルの平山城で、麓からは約20メートルの高さがあり、本丸・二の丸を中心に二重堀をめぐらし複雑な遺構をなしている。名古屋市内ではもっともよく戦国期の状態が残る城址として知られ、現在も殆ど原形に近い姿を伝えている。『末森村古城絵図』(蓬左文庫蔵)によれば、現神門前の南側広場が本丸址、昭和塾堂付近が二の丸曲輪址である。又、本丸を巡る内堀北の虎口には「三日月堀」と称される半月形の丸馬出しがあり非常に珍しいものであったが、今は存在しない。また、城址東南の山麓の城下(末森村)を囲んで堀を巡らした「総構え」の形になっている。 末森城以前の末森山一帯 末森城址を含む一帯を末森山と称し、ここから北へ続く丘陵地帯には、6世紀後半ころのものと考えられている「城山古墳群」があり、石棺・金環・刀子・鉄鍔・装飾須恵器・円筒埴輪などが出土している。また、この地からは良い黄土を産し、末森窯跡も発見されているところから、須恵(陶)器の産出が行われていたと見られ、生産が瀬戸へ移行する以前の陶器生産地であると考えられている。この一帯をもと尾張之國愛知郡末森村と称したが、末森(末盛)の末は陶の義であろうかと考えられる。 |
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二の鳥居と空堀にかかる反橋 |
八幡宮の境内 城山八幡宮は、末森城址の殆どを境内とし、約1万坪の広さである。社殿は本殿、祝詞殿、幣殿、拝殿、廻廊、神門等からなり、末社には山神社(祭神大山祇神)、神明社(祭神天照大神)、津島社(祭神建速須佐之男命)、豊玉稲荷社(祭神稲荷大神)がお祀りされている。 又、境内には明治以来のこの土地出身の戦没者を顕彰する殉国碑がある。城山八幡宮では春秋に「城山三十日講」主催により、この殉国碑前で「靖国祭」を斎行している。(靖国神社では終戦まで、4/30に春季例大祭〜日露戦争陸軍凱旋官兵式、10/23に秋季例大祭〜同海軍凱旋観艦式を行っていた事に由来する)。 昭和塾堂 境内南西一帯の末森城二ノ丸址には、昭和3年建築の歴史的建築物「昭和塾堂」が保存されており、大正・昭和初期の様式を伝える貴重な歴史的建築物として評価されている。 城山八幡宮関係史料 当宮関係史料では、「尾張名所図会」に永禄年間(1560年代)天野伊豆守重次社殿修造、天和2年(1682)の棟札に社殿修造、亨保16年(1731)の棟札に社殿再建、文化年間(1810年代)尾張藩主鳥居寄進、同じく文化年間の扁額に従五位下田島丹波守仲孝謹書の事等があり、尾張藩を始め武将の篤い崇敬を集めていた事がわかっている。 |
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現在の城山八幡宮 現在、千種区の東南部51町を氏子区域とし約52000人の氏子を擁するが、名古屋市内はもとより名古屋市周辺部・県内・県外からも『厄除開運・交通安全の大社』『縁結び祈願の社』としての参拝が多く、恒例の祭典、月参り、日参等を始め「厄除け参り」「交通安全祈願」「初宮詣」、山の手の夏を呼ぶ祭りとされる「茅の輪くぐり」(7月15・16・17日)、「初詣」、「七五三詣」等で賑わい、一歩境内に足を踏み入れれば、名古屋の中心とは思えない緑の杜は数少ない都心のオアシスとして親しまれている。 末森城址碑に隣接する空堀は初日の出の名所になっており、元旦午前7時頃には東山公園丘陵からの初日の出が見られるため、多くの参拝者が集まる。 八幡宮の周辺と城山三郎の所縁 八幡宮の北一帯には相応寺、台観寺、大龍寺、大林寺、善篤寺、常楽寺、正法寺、尋盛寺、日泰寺等多くの古寺があり、『やすらぎの道』とも云われる穏やかな雰囲気に満ちた地区である。 なお、作家「城山三郎」のペンネームはこの地名に由来するのも、時折語られるエピソードである。 |
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