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末 森 城 哀 史

稲生が原の戦い


信長と信行



織田信行 末森城址碑


 100年ほど前に遡りましょう。明治33年(1900)。明治後期、総理は山県有朋。末森城の姿は残っていません。
 もう100年遡ります。寛政12年(1800)。江戸後期、将軍は11代家斉。老中松平定信による寛政の改革が一段落した頃です。
 また100年遡ります。元禄13年(1700)。江戸中期、将軍は5代綱吉。浅野内匠頭長矩(ながのり)が吉良上野介義央(よしなか)へ刃傷をした1年前です。
 また100年遡ります。慶長5年(1600)。安土桃山時代末期、秀吉が死に、関ケ原の合戦で石田三成が斬殺されました。末森の城は大変に傷んで、廃墟となっています。
 それから44年さかのぼります。弘治2年(1556)です。室町後期(戦国時代)、13代足利義輝が将軍の時代です。ここは織田信行公が城主である末森城の中。

 今日は弘治2年8月23日です。この末森の城は、9年前の天文16年(1547)、信長公の父である織田信秀公が古渡城から移り、本城として築いた城です。信行公の母である土田御前、妹のお市の方、お犬の方も共にいます。
尾張での実権を握っていた織田信秀公も7年前の天文18年(1549)に亡くなりました。信秀公の家督は信長公が嗣いで清洲城にいます。
ここ末森城は信秀公の死後、信長公の弟信行公が嗣ぎ、母の土田御前と共におります。信秀公の家臣、林佐渡守通勝、林美作守通具、柴田勝家たちも、信行公と共にこの末森の城にいます。

 弘治2年(1556)8月23日の夜半です。雨が降っています。
神門の南は末森城本丸です。
本丸の方が戦の支度で騒がしくなっています。

 実はこの末森から約7q程西北の、西区、庄内川(小田井川)橋近くに信長公が築いた名塚の城を攻めようとして約2000人程が集っている最中です。
信秀公の死後、その家臣達は、うつけと云われた信長公を廃嫡し、折り目正しい秀才型の信行公を立てようとして、ついに兄弟が衝突したのです。

 8月24日明け方、柴田勝家の兵は清水から安井、成願寺を通って西に進み、名塚城へ迫っています。林美作守の兵は那古野城から浄心を通り北へ向かい、これも 名塚城へ迫っています。
名塚の城は東に柴田勢、南に林勢に囲まれました。
 勿論、この様子は清洲の信長公にも伝わっています。信長勢は庄内川の北の坂井戸まできていますが、雨の為の増水で川を渡るのに苦労し、夜明け前になってやっと名塚に到着しました。

 名塚城の城主は佐久間大学です。300の佐久間勢、1000の信長勢が、2000の柴田勢、700の林勢とぶつかっています。約半分の信長勢ですが、激戦の末、なんと林美作守は信長公に直接討ち取られてしまい、完全に信長公の勝ち戦になってしまいました。

信長公はここ末森を包囲しましたが、母の土田御前の嘆願を入れ清洲に帰りました。
所謂稲生が原の戦です。

 一社の城を持っていた柴田は、信行公に報告の後、清洲城に向かい、信長公に信行公の助命を嘆願しました。此度の事は、自分と林美作守が独断でした事で、信行公は知らぬ事としたのです。
 普通ならば即座に首をはねる信長公が何故かこの時は勝家を許しました。この時から勝家は信行公に仕えながら、信長公の忠臣となった様です。
 信行公、勝家、林が謝罪し、母の土田御前からの願いもあって信長公は一応信行公を許しました。
しかし、信行公は信長公に対して再び対抗したと云われています。

 2年後の永禄元年(1558)12月2日、信行公は母の土田御前と共に、病と称する信長公に清洲城へ呼び寄せられ、清洲城内で信長公の家臣に謀殺されたと伝えられています。又、信長公自身に殺されたとか、或いは切腹させられたと云う説もあります。
この事件の裏には、柴田勝家の信長公への通報があった様です。

 信長公にとって尾張の地を固める上で最もやっかいな相手がこの実弟の信行公でした。
万松寺での父信秀公の葬儀の際、信長公が抹香を位牌に投げつけたという有名な逸話がありますが、父信秀公の本城であった末森城を嗣いだのが弟の信行公であったことが、そのような行動に出た原因であるとも言われています。
主を失った末森城は廃城となり、城跡には神社と空堀だけが残されました。
この城跡の神社と、この城から200mも離れていない隣の山の八幡宮とが合祀されて今の城山八幡宮となっています。
 静かな夜、耳を澄ますと今も信秀公、土田御前、信行公、柴田勝家、佐久間兄弟、そしてこの城で戦国の夢を描いた者達の鬨の声が森の中に聞こえてくるような気がします。


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