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尾張名所図会
 『尾張名所図会』は、前編が天保15年(1844)に尾張藩官許のもとに出版され、後編が明治13年(1880)に愛知県蔵版として刊行されている。前編7巻7冊、後編6巻6冊である。名古屋城下から起こし、愛知・知多・海東・海西・中島・春日井・丹羽・葉栗・一宮・瀬戸・犬山まで尾張国の案内記として記述している。名産・沿革・勝地・社寺・古跡などを取り上げている。
 こうした名所図会は、各地で、安永年間から明治にまで及び刊行されたが、尾張のそれは、岡田啓・野口道直が稿を担当し、挿絵は小田切春江が主に担当している。挿絵も多く当時の様子を知る名著である。
 以下、末森城・織田信行公の記述を抜粋した。

尾張名所圖會前編 巻ノ五 愛智郡
泉龍山桃巖寺 同村にあり 曹洞宗 白坂雲興寺末 天文年中織田武藏守信行建立して其父備後守信秀の香花の地とし快翁和尚を以開基とす桃巖は則信秀の法号なり信秀の父子及び柴田勝家の位牌あり
末森古城 同村にあり織田真紀に天文十六年桃巌公徹古渡城 新築城於末盛山而居焉と見え信長記に備後守殿逝去し末森の城は勘十郎殿へ壤り給ひけると記せし古城なり當所白山社に傅はれる古き御正躰の臺ばかり殘れるが其裏書にも白山勧請神御座御光施主織田勘十郎信勝云云天文廿二癸丑五月三日御鎭座と見えたるは其地信勝在城ありし事慥に志られたり此人後に武藏守信行と名乘れり是信秀の二男にて信長公の弟なり信行兄信長公へ對して不義の事多かりければ柴田権六勝家度々諫言しけるを聞入れず都筑藏人が讒言によりて却て勝家を疎んじ惡まれければ弘治三年丁巳正月勝家夜中密かに淸須信長公の許に參りて信行逆意の企をぞ申しける信長是より病と称して籠居ありければ母公驚き淸須へ見舞に參られけるに信長公病の重き事を語り蘇枋の煎じたるを呑てこれを吐出し見せられければ母公甚驚歎して武藏守信行の許へ急ぎ見舞に參るべしと申送られければ信行取あへず淸須の城へ來らるかねて山口飛彈守長谷川橋助川尻靑貝を討手に定め靑貝初太刀と宣ひけるが少し早まり討損じければ信行驚き母公の方へ逃退きけるを廊下にて池田勝三郎信輝抱留て突伏けるよし安土創業錄織田真記等に見えたり當村桃巖寺に葬め法名前武州太守松岳道悦大禅定門と号す
同村=末森村の事
織田勘十郎信勝=織田信行の事

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