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『マカニーとエルドの物語』

(城山八幡宮とマカニー・エルド・北王園長・三井大尉・大野署長)
   
境内神苑
神職と北王園長
拝殿前へ参拝 拝殿前へ参拝 マカニーとエルド
御朱印

■東山動物園に来た4頭の象
 昭和12年の春、市内に4頭の象を連れて木下サーカスが来た。東山動物園には、象の花子1頭だけしかいなかった。園長の北王は、4頭のうち2頭を譲りうけたいと考え、サーカスの団長と懇意な老夫妻に頼んだ。老夫妻は「あの象はこれ以上大きくなっては輸送も困難だし、思いきって2頭だけ譲られたらどうだろう。東山動物園には立派な象館が新設されたので、あそこで余生を送らせてやったら象も幸福でしょう」と話した。
 象の余生が幸福だからという言葉に心が動き、「象はお譲りしましょう。値段はいくらでも良い。ただ、あの4頭を別々に離れさせるのは可哀想だから、全部引き取られるのなら譲ります」と返事があった。
 北王園長は驚いたが、遂に27000円で4頭全て買うことにした。しかし、その後何日たっても象が来ない。象使いの少女たちが象と別れるのは嫌だといって泣きだし、団長夫人まで象を手放すのは不賛成だと言うので時間がかかっていた。
 12月になって、マカニー、エルド、キーコ、アドンの4頭の象は住みなれたサーカスから東山に向かった。象の左右には、象使いの少女たちがどこまでもついてきた。雪まじりの小雨も降ってきた。少女たちは象が濡れるといって、自分たちの着ていた小さいオーバーを脱いで、象の背に乗せてやった。北王園長も目がしらが熱くなった。
 キーコとアドンは戦争中に亡くして、マカニー、エルドの2頭が残った。

■悲劇
 昭和18年、日本動物園協会の総会が名古屋市で開催され、東京、大阪、京都、朝鮮の京城、新京特別市を含めて20名の動物園長が参加した。皆が最も関心を持っていたのは猛獣の処分のことだったが、誰も公に発言しなかった。
 ところが間もなく、東京で空襲に備え上野動物園の猛獣を処置したと伝わった。動物園は「戦力に何ら寄与しない施設」として扱われるようになった。再び動物園長会議を神戸市で開き、「お互いに横の連繋を保って歩調を揃えること。猛獣舎の設備を頑丈にして、防空演習などの非常対策を強化すること。市民に対して、どんな事態になっても決して動物を逃がさないということを宣伝し、猛獣の延命策を講ずること」が申し合わされた。
 「東山動物園は新しい設計で、猛獣舎は多くのコンクリートと鉄骨を使っているから、いざという時には、寝室へ閉じこめておけば、檻が壊れることはない。直撃弾が当たれば猛獣も生きていられないから、危険の恐れはない」と理屈を言っても人々は納得しなかった。
 ある防空演習の日、動物園にモンペ姿の母親と子供が3人、それに婦人が1人来た。その婦人は珍しく和服の着流しだった。正門にいた警防団員が近づき「オイ、その服装はなんです。戦争を知らんのかね。この非常時に動物園なんかを、うろうろする人間は非国民だ」と言った。婦人は一旦園内へ入ったが逃げるように出ていってしまった。
 昭和18年、ライオン2頭を張家市へ寄贈した。昭和19年には空襲がきた。附近の人は、早く猛獣を処置してもらいたいと投書をした。交代で警備をした猟友会の人たちは、猛獣さえいなくなれば家へ帰れるといって園長を非難した。
 北王園長は市当局と相談し、空襲によって情勢が切迫した場合には、園長の判断で猛獣の処置ができるという、市長の決裁をとった。これで、どたん場まで頑張れると思い、軍部、警察、警防団などへは一言も話さなかった。
 昭和19年12月13日、敵機70機が東方より侵入し、約2時間の市内大空襲を行った。猟友会の面々が、銃床をたたきつけて園長を取り巻き決心を迫った。「市長の許可がなくてはできない」「はやく市長の許可をとれ」「電話が故障だから通じない」。押し問答をしながら、涙が頬に伝わった。暫くして、園長は「やって下さい」といって立ち上った。それから45分の短時間に豹2頭、虎1頭、熊2頭、ライオン2頭は哀れな最期をとげた。
 それでも、象3頭はじめ、白熊、河馬、野牛など動物は残っていた。しかし名古屋師団が動物園を使用することになり、昭和20年、遂に閉園に至った。動物の檻は軍の倉庫となった。
 動物に与える肉も配給もない。死んだ動物の肉を残ったものに与えた。仲間の屍で飢えをしのぐなど園長として居た堪れない思いだった。動物達は飼料不足と寒気の爲に大方は死んだ。獅子、虎、豹、白熊、熊などの人気者が、何も知らないのに、何の罪もないのに射殺された。
 こんな日が半年も続き、遂に終戦に至った。幸いに2頭の象は生き抜いた。

■上野動物園
 昭和18年、東京では1カ月以内の「猛獣処分」が命じられた。銃殺は音が出て、市民に不安を与えるからというのでしなかった。結果、すみやかに殺すことができなくなり、動物園史上もっともおぞましい殺害劇が展開された。生きものたちは、毒、槍、包丁、ロープ、ハンマーによって殺されていった。自分たちを信頼しきっている動物に手をかけた職員たちは、皆やつれていった。象のジョン、ワンリー、トンキーは、毒入りのエサを食べることを拒否し、「絶食」という方法がとられた。ワンリーとトンキーは、おぼえた芸をして必死に餌をねだり、飼育員も苦しくてつい食べものを与えた。

■城山八幡宮・マカニー・エルド・北王園長・三井大尉・大野署長
 東山動物園は昭和21年3月16日まで観覧停止となり、軍の兵糧庫とされた。当時の東山動物園を管理していた三井高孟(たかおさ)獣医大尉は、名古屋市千種区城山町の八幡社(末森城跡・現城山八幡宮)にあった、中部軍管区司令部(昭和塾堂〜城山八幡宮境内)所属の獣医大尉だったが、軍規違反を承知で、動物園職員が兵糧の中から象の餌を盗んでいたのを黙認した。三井大尉は、軍馬用の餌を象舎の通路に置くように指示し、配給も止められていた象の餌にと無言の支援を行った。動物園に駐屯していた陸軍が象舎に積みあげていたマイロを盗み、象を養った。わざわざ盗めるようなかたちで置いたのは、三井大尉のはからいだった。このおかげで、象たちは戦争を生きぬくことができた。昭和24年頃に、北王園長はマカニー・エルドを連れ八幡宮へ参拝に来ている。神職や付近の子供達が大勢集まって出迎えている写真が残っている。
 象のマカニーとエルドが射殺処分されそうになった時、北王園長は 「この象たちは、よく仕込んであり、どんな芸でもするし、おとなしい象だから決して人間に危害を加えるようなことはしない。この象たちだけは殺さないで欲しい。万一の時には私が責任をもつ」と懇願した。立会いの警察官も情を感じて、象の射殺は見逃した。
 終戦となり、豊橋では、昭和29年に豊橋産業文化大博覧会が開催された。この時、会場の一角に動物園を設け、動物園を再園する計画が持ち上がった。時の豊橋市長は、豊橋警察署長だった大野佐長(さちょう)氏。戦時中は、東山動物園を管内にもつ千種警察署の署長だった。あの時、マカニーとエルドを見逃した警察官こそ、この大野氏だった。そして、再園する豊橋動物園を全面的に支援してくれたのは、東山動物園の北王園長だった。

■ぞう列車
 昭和24年、「象を知らない東京の子どもに、どちらか1頭貸して下さい」という台東区の全小学校子供議会からの陳情書が塚本・名古屋市長と北王・東山動物園長のもとに届けられた。翌月、台東区子供議会の代表2名が、名古屋市子供議会臨時総会に出席し、象を貨して欲しいと訴えた。また、塚本名古屋市長・松下孝次名古屋議会議長・北王東山動物園長に象貸し出しを陳情した。
 大人たちの申し出に対してはことわり続けてきた北王園長も、純真なこども達の攻勢をもて余していた。そこで2頭の象は一かたまりのように仲よしであること、象は神経質だから、無理に仲をさいたら病気になるおそれがあることなどを、繰返し説明したうえで、その実演をしてみせた。
 エルドを1頭だけ室の中に残して、マカニーをいやおう無く連れ出した。数名の飼育係に急かされて、マカニーは不承不承に外へ歩きだしたが、室内でエルドがキユウ、キユウというかん高い声をたてながら、鼻で床をたたいてパンパンという響きをたてた。それを聞いたマカニーの形相が変わって、目をつり、耳を大きく立てて、同じようにキユウ、キユウを連発して、中と外とで呼応し始めた。約100mばかり離れた噴水塔のあたりまで来たとき、室内のエルドは鉄戸に頭をぶつけて、体当たりで戸を破ろうとした。額からは血が流れた。悲鳴は一段と激しくなり、狂気したように暴れた。するとマカニーは、ピタリと動かなくなった。またエルドの悲鳴が聞こえると、こんどはクルリと体を回し、係員を残して自分の家へ走り出した。もう制止は効かなかった。さっさと室の前まで戻って、内と外で呼びあい、鳴き合っていた。この情景にうたれた子供代表たちも、やっと引き離すことは無理だということを納得した。
 そして、市・鉄道・動物園関係者は「象さん列車」を走らせることを決定し、台東区子供議会の代表2名が「象輸送の請願書」を参議院議長へ提出した。
 第一陣として彦根市内の8小学校の5・6年生約1400名が、「ぞう列車」で名古屋の東山動物園を訪ねた。続いて、東京の子どもたち約1400名が、夜行の「ぞう列車(エレファント号)」で。三重から1000名、彦根から第二陣が1000名、大阪450名、京都1600名、滋賀1700名の子どもたちが訪ねた。その後も埼玉、神奈川、石川、福井など各地から次々と「ぞう列車」は名古屋にむかった。
東山動物園オフィシャルブログによれば、参加者は、3万人を超えたといわれている。
 マカニー、エルドは門前まで皆を迎え、大きい背に子供達を乗せて交歓した。

■花まつり・動物まつり
 昭和26年頃には再び園の象を増やす事ができるようになってきた。花まつり・動物まつりは東山動物園の恒例の行事だった。稚児行列には、盛装した3頭の巨象が先頭に立った。象の衣裳はシャムの式典に則って、金属の頭飾りと耳飾り、紅色のビロード地に刺繍を施した豪華なガウンと面かくしを纏った。いちばん大きい象の背には、桜の造花をちりばめた花御堂を乗せた。美々しく飾りたてた象の後には、僧侶と稚児が延々と行列をつくりながら、電車通りから動物園へくり込んだ。花の下、人の波を左右に分けながら、花御堂を背にした巨象が練り歩いた。園の中央に設けられた祭壇で稚児たちの舞、灌仏会、動物慰霊の式典が挙げられ、全動物を代表して象やサルなどが焼香をした。

■巨象の体重
 昭和30年頃、いちばん大きいのが4010kgのマカニーで、約46歳、その次は2980kgのエルドで36歳くらい、マカニーは、中学生なら優に100人に相当した。メスのインド象としては、マカニーは原産地へだしても、巨象として通用するものだった。

■2頭の死
 マカニーは昭和38年9月9日に死に、エルドは同年10月8日、追うように旅立った。千種区の田代小学校では、学校を挙げて2頭のお別れ式に参加した。東山動物園の「動物慰霊碑」には両象が眠っている。また「ぞう列車」の記念碑も建てられている。

■北王 英一(きたおう ひでいち)
 東山動物園初代園長。太平洋戦争中に出された動物射殺命令から象を守り、ぞう列車を実現させた。
 明治33年、京都の呉服商の家に生まれる。市立名古屋動物園(鶴舞公園)に就職。同園が東山公園に移転した際に初代園長に就任。周囲の反対を押し切り、日本初の無柵式放飼場を設置。開園当初は象が1頭のみであったため、木下サーカスの象4頭を購入した。
 戦時中は名古屋市も空襲を受け、治安維持のため大型獣に射殺命令が下るが、軍や警察を説得して2頭の象と1頭のチンパンジーを守った。終戦後には日本にこの2頭しか象は生き残っていなかった。昭和24年には象列車を実現させた。2頭の象が死ぬまで、毎晩「ごくろうさん」と象に声をかけるなど、愛情を注いでいた。
 移動動物園や動物サーカスを開催し、子どもたちに夢を与えた。特に名古屋では古賀上野動物園長に匹敵するカリスマ性をもった。平成5年、93歳で死去。

※参考  動物の四季(北王英一)・東山動植物園HP・フライパンクラブHP・子供議会と「ぞう列車」が走るまで(小出隆司)
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