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女坂の門
女坂からの門
洗心軒(城山八幡宮献茶殿)

 社殿東南、空堀跡に茶室「洗心軒」が建てられている。名古屋における明治期の代表的な数寄屋建築である。

 洗心軒は、
名古屋の豪商師定の初代高松定一(文政11(1828)年〜明治33(1900)年)が、明治23(1890)年、納屋橋近くの中区竪三ッ蔵町に隠居所「香細舎」として作ったものである。また、第十二代名古屋商工会議所会頭の三代高松定一(齢吉・明治22(1889)年〜昭和23(1948)年)はここを別邸として用い、盛んに茶会を催し財界交流の場となった。関東大震災(大正12(1923)年)の後、昭和の大茶人と言われた鈍翁(どんおう、益田孝、三井物産初代社長)宗匠が1年余り滞留し、名古屋の茶風に新しい息吹を吹き込むなど、名古屋茶道界にとっても大変由縁の深い建物である。

 高松家は初代定一が尾張藩御用商師崎屋高松家から江戸後期に分家、創立した家で、「師崎屋」と「定一」の頭を取った『師定』の屋号で肥料問屋を営んでおり、現在は食糧生産資材分野の大手、師定となっている。高松家本家は師崎屋高松長兵衛家(師長)と称し、現在且t長商店となっている。

 建物は、明治の初期(明治15(1882)年〜20(1887)年)松尾流九代半古斎が建築指導に当たり、その建築資材の優れた事では定評がある。半古斎は
茶室・数奇屋・庭園はじめ作事に長け、現存する作例の代表的なものに茶室では諸戸本家(桑名市)の「伴松軒」、庭園では總持寺(横浜)の「紫雲庭」等がある。

 昭和22(1947)年、朝日新聞本社が高松家から買い取り、「朝日寮」と名付けて会議・宿泊・諸会合施設として使用していたが、昭和41(1966)年、名古屋本社増改築工事に伴い取り壊すこととなった。明治村への移築の話しも出たが実現せず、危うく消失するところだったが、松尾実知家元と当宮吉田陸先代宮司との交誼の縁で八幡宮へ移されることとなり、
昭和43(1968)年8月、当宮境内へ移築された。(資料:「朝日人(朝日新聞社)」等)

 香細舎と名付けられていた当時、この中に松風亭、緑水亭、聴鷺亭、歓喜庵、披茶庵、三露庵、松月亭、招月庵等の席があり、延べ81坪の建坪があったが、現在は9畳の招月庵、7畳の松月亭、4畳半の歓喜庵、3畳の披茶庵、2階に8畳6畳の座敷を残し、建坪約68坪、総床面積約83坪である。
 外観は、飛雲閣と詩仙堂を模しており、御殿風数奇屋建築とでもいうべき特異な姿である。一層は簡素な数奇屋造で清々しい切妻屋根であるが、二層は銅板葺の方形屋根に冠している金の陶製宝珠を大きな特徴としている。遣水を流すこともできる凝った茶庭も整えられている。
 希望者は茶会等での利用もでき、末森城址、城山八幡宮の緑に包まれた茶室は正に別世界である。
                    →使用申込について
洗心軒外観
洗心軒外観(方形屋根に陶製宝珠)

招月庵(西棟一階九畳席)

歓喜庵(西棟一階四畳半席)

西棟(歓喜庵)二階十四畳席

西棟二階の網代戸と無双窓

松月亭(東棟七畳席の小舞天井)

披茶庵(東棟三畳席の下地窓)

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