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建設当時の昭和塾堂(昭和3年)


昭和塾堂正面

玄関ロビー

講堂(演壇側)

講堂(客席側)
貴賓室

教室

最上階への螺旋階段

最上階尖塔部

最上階バルコニーからの東山丘陵

八幡宮(右上)の社叢と昭和塾堂(左下)
昭和塾堂

 境内西南、末森城二の丸址の丘に、神社建築でもなく、寺院建築でもゴチック建築でもない、塔を中心とした一風変わった様式の建物が見える。『昭和塾堂(しょうわじゅくどう)』である。

 この建物は昭和3(1928)年、八幡宮より境内を借り受けた愛知県が建設したものである。「昭和塾堂」の名は第21代愛知県知事柴田善三郎によって命名されたものであるが、時は関東大震災の直後、満州事変の直前という難局にあり、とりわけ男女青年団の意義は重要視され、青年層の教育・育成に対して県として大きな関心を寄せていた。その様な背景から、昭和改元の記念事業として、柴田知事が中心になり青年教育・社会教育の施設を建設する運びとなった。当時日本建築構造学の権威、佐野利器(としかた)博士の助言のもとに愛知県営繕課酒井勝、足立武郎(設計主任)、黒川巳喜(意匠図・黒川紀章の父)、尾鍋邦彦(構造図)等が設計し、完成したものがこの昭和塾堂であり、いわゆる「教化殿堂」「人づくりの殿堂」として建設されたものである。尚、佐野利器博士は、明治神宮造営局参事を務め、名古屋市庁舎・愛知県庁舎建設の顧問にも就任している。

 4階建の塔屋部を中心に四方の眺望を得、下部には2階建鉄骨鉄筋コンクリート造りの本館が三方に伸びる、と云う体裁である。正面玄関に向かって立つと、南翼棟と西翼棟が90度に開き、その反対側の講堂棟は両翼部と135度の角度を付けた構成をもっている。内部には600人収容の講堂・神殿・教室・食堂・図書館・寝室・浴室・貴賓室等の総合的諸設備を整え、とりわけその設計に際しては、真上より見ても横から見ても「人文字形」に見える様に設計されたことは、この施設の目的である「人づくり」を表現したものとして、その特徴となっている。
建築としては、日本建築に西洋古典建築の様式を取り入れ、屋根は流れ造りの反りが入る入母屋造の2階建西棟・南棟、及び2階席付き講堂部棟に、寺院の八角堂塔のように見える中央部が接合している。軒裏部には垂木に見える意匠が施され、屋根末端には鯱風の鴟尾飾りが付いている。壁面には西洋風の窓飾り、廊下にはアーチ様の意匠が付けられ、内部は部屋毎に異なる天井飾り、柱頭飾り、梁飾り、円形・半円形の窓枠、講堂演壇は三重の額縁飾り、飾り柱等、西洋古典風の意匠が各所に施されている。塔屋部螺旋状の階段室には天然大理石を混ぜた人造大理石の手摺が2階から4階まで連続して設置されている。最上部の4階は8本の柱に囲まれ、ダイナミックな柱頭飾りや丸窓、塔中央部に延びる曲線が教会風の雰囲気を醸している。塔屋4階床部から塔心柱最上部まで非常に高さがあり、建物全体の約半分の高さを取っている。4階からは東西のバルコニーへ出る事ができ、東は名古屋東部丘陵、南は名古屋港、西は養老山地・伊吹山まで眺望が広がる。西棟地下は、ボイラー室、浴室、医務室、休憩室、売店等の設備があり、床には明治末期から昭和初期の貴重なタイルが乱貼りにされている。

 昭和塾堂に続いて昭和8(1933)年に建てられた名古屋市庁舎、昭和13(1938)年の愛知県庁舎などの、日本建築を基調とした西洋式建築の先駆けをなすものとして、大正末期から昭和初期の建築様式を良く残し、建築史的にも教育史的にも貴重な近代建築である。
昭和2年9月から約15ヶ月、県下35青年団1081人の勤労奉仕などを得、昭和2年6月に地鎮祭、昭和3年11月に竣工した。本館完成後、體育殿・塾堂長公舎・堂舎(養心殿、現在の体育殿とは異なる)等の施設が整い、県内社会教育の中心施設として活動がなされた。山梨県学務課長の堀内文吉氏を塾堂長に迎えてからは特にその活動は活発に行われ、ここで研修・修養を受けた受講生達は16万人にものぼり、県下の指導的青年層として各界で活躍した。東久邇宮稔彦殿下、徳富蘇峰等を始め、全国からの視察が相次ぎ、各府県ではここをモデルに青年教育施設が次々に建設されていった。
その後、昭和18(1943)年、軍に接収され東海軍司令部が入り、戦後は名大医学部・県教育文化研究所・県職員研修所・千種区役所仮庁舎等に利用された。昭和42(1967)年4月県より八幡宮が払下げを受け、管理保存している。

 一部で「軍国主義教育の施設」という評価をする向きもあるが、当時のカリキュラムに軍事教練などは無く、青年団・処女団幹部の一泊研修・三泊研修はその連帯感を昂め、情操教育・職業教育・健康教育まで幅広い「人づくり」が行われ、何度も受講する者が多く見られる。
学校などでの軍事教練が盛んに行われていた時期、格好の軍国主義教育の場であるはずの昭和塾堂が逆に軍に接収された事実や、戦後、国の規制を離れた県青年団が、再び青年のための社会教育施設として活用するための熱心な運動を起こした事実などは、戦前も軍国主義称揚の場ではなく、本来の意味での人づくりのための大切な場所であった事を物語っている。

 昭和初期に各地で建てられたこうした青年教育・社会教育施設は、本昭和塾堂が日本で唯一現存しているもので、平成17年には「愛知県の近代化遺産」への登載、平成26年(2014)には国立近現代建築資料館にも登録され、「我が国の近現代建築発展の足跡を示す貴重な、次世代へ継承されるべき文化的価値の高いもの」と評価されている。



様々な内部意匠


食堂の天井飾り
(アカンサス)


最上階の柱頭飾り

講堂の柱頭飾りと
持ち送り部飾り

貴賓室の木組み床

ロビーの柱飾り

地下室の飾りタイル

地下室の乱貼り飾りタイル

壁面の窓飾り

床下換気口の飾り格子

(建物の概要)
構造 鉄骨鉄筋コンクリート造コンクリート葺地下1階付4階建
床面積 1階 820.175u
2階 776.875u
3階 93.75u
4階 59.75u
地下1階 314.15u
総床面積 (2064.7u)
  高さ 塔屋部(塔先端まで) 32m
翼部 13.6m 
建坪 820.175u
敷地 22945.726u(八幡宮境内を含む面積)
建築主 愛知県
設計 愛知県営繕課
施工 志水組
建物経過 大正15年12月21日 通常愛知県議会にて昭和塾堂建設費予算12万円決議(愛知県青年会館史より)
昭和2年5月21日   八幡社より県へ土地の無償貸与(県自治研修所調)
昭和2年6月4日    地鎮祭(塾堂施設概要より)
昭和2年8月30日   新築(登記簿より)
昭和2年9月12日〜昭和3年11月1日 県下青年団員1069名労力奉仕(塾堂施設概要より)
昭和3年1月6日    着工(塾堂施設概要より)
昭和3年11月13日  竣工(塾堂施設概要より)
昭和4年1月9日    使用開始:県・文部省共催成人教育講習会(塾堂施設概要より)
昭和4年3月25日   落成式:総工費16万円(愛知県青年会館史より)
昭和5年1月11日   堀内文吉塾堂長事務取扱任命(愛知県青年会館史より)
昭和5年6月13日     同 塾堂長任命(愛知県青年会館史より)
昭和6年2月       体育殿竣工
昭和9年2月       塾堂長公舎竣工
昭和16年2月      堂舎竣工
昭和18年        軍(いかり部隊)に接収(愛知県青年会館史より)
昭和19年〜昭和20年8月 東海軍司令部駐留(愛知県青年会館史より)
昭和20年8月     名古屋帝国大学医学部へ無償貸与(愛知県青年会館史より)
昭和23年〜      愛知県青年団が塾堂返還運動(愛知県青年会館史より)
昭和23年〜昭和38年12月末 県教育文化研究所・職員研修所(県自治研修所調)
昭和41年2月1日〜昭和45年1月 千種区役所仮庁舎(八幡宮資料より)
昭和42年4月20日  八幡宮へ払下げ完了(八幡宮資料より)
昭和45年1月〜    愛知学院大学大学院歯学研究棟(八幡宮資料より)
平成29年4月30日  愛知学院大学賃貸借契約終了












 城山八幡宮養心殿 
(昭和塾堂体育殿)


養心殿全景



鴟尾



玄関
 『城山八幡宮養心殿』は、昭和塾堂の付属体育殿(体育館)として昭和6(1931)年2月に愛知県によって建設されたものである。昭和塾堂の研修では講義形式の他、身体鍛錬研修も行われ、この体育殿では男女ともに各種武道・舞踊等も実施された。3泊〜10泊でのこうした研修は、受講した各地の青年団員同士に強い連帯感と親近感を生み、長く記憶に残る若き日の思い出となった。
 この建物は、木造平屋建てスレート葺き、照りのある入母屋屋根で、棟の両端に昭和塾堂と同様鉄板の鴟尾を載せている。全体では南側正面が10m、東側側面が16m、棟高は9m。全体に日本的意匠が強調されている。南側の玄関は照り破風の切り妻屋根で懸魚・肘木を持つ。内部の天井は格天井。武道に理想的な床板を張っているため、この施設を使い続ける道場主が多い。


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