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「いただきます」考

***  誰に対しての「いただきます」?  ***

 普通、我々は大抵食事の前に「いただきます」といっている。
「いただきます」という言葉には、「稲が実り収穫するまで八十八の手間がかかるから『米』と書く。それだけ手間を掛けて作って『いただき』、ありがとうございます。感謝して一粒のお米も無駄にしません」という、農家に対する感謝が込められている。また、米に限らず、「自然の恩恵や生き物、植物など、他の命を『いただいて』自分の命を繋いでいる」という、大自然や命に対する感謝が込められている。食事を作ってもらった相手に対する気持ちも込められる。あるいは病中病後などに、今、無事に食事を『いただける』ことに対する感謝が湧き出ることもある。人は自然の恵みを受けなければ生きて行くことができない、生かされている存在であることを感ずる時もある。それらが最も昇華された時、神・仏・超自然的存在への感謝が自覚されてくる。

 「手を合わせて『いただきます』と言うのが宗教的だから、学校でさせてはいけない」などという報道は以前から時々耳にするが、これについては一部の宗派や政治的なバックグラウンドが潜んでおり、それらが為にしている場合も多い。しかし、今年に入って毎日新聞で取り上げられたケースには驚かされた。それは昨秋TBSラジオの「永六輔その新世界」(土曜朝8時半〜、放送エリア関東一都六県)という番組に寄せられた手紙だったそうであるが、「ある小学校に対して『給食の時間に、うちの子にはいただきますといわせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、いわなくて良いではないか』という申し入れをした母親がいた」という内容であった。

 番組には七百通を超える反響があり、多くはこの母親の申し入れに否定的だったようである。あるリスナーは「私は店で料理を持ってきてもらった時『いただきます』というし、支払いの時は『ごちそうさま』といいます。立ち食いそばなど作り手の顔が見える時は気持ちよく、よりおいしくなります」と寄せた。

 一方、この母親のような考え方は必ずしも珍しくないことを示す経験談もあり、「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』と言ったら、隣のおばさんに『何で』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と言われた」との内容だった。「いただきます」という際、手を合わせることが「宗教的行為だ」、と疑問を投げかける人もいた。しかしこの母親や食堂のおばさんのケースのような、「お金を払っているから」というのは、最近でてきた新しい傾向である。「給食費」と「いただきます」を関連づける発想はどこから出てくるのであろう。生産者・自然・命ではなく、お金に手を合わせてしまっている。金銭(経済)至上主義である。何と貧しい哀れな考え方であろうか。会社を売り買いするIT企業や投資ファンドにも共通点があるような気がする。過日逮捕されたIT企業の社長は、「いただきます」といっていたのか気になるが、話の発端になった母親は「いただきます」をいうかどうかを、物の売り買いのみの観点で決めているのである。しかし本当の意味で正当な取引の場には、お互いの間に「買ってくれてありがとう」「良いものを売ってくれてありがとう」という気持ちが通い合うものであろう。物の対価と命への感謝は秤に掛けることなどできはしない。

 永氏は、中華料理店を営む友人の話も紹介した。「いただきます」と聞くとうれしいから、お客の「いただきます」の声が聞こえたら、デザートを無料で出すサービスをした。サービスを後悔していないか尋ねたら「大丈夫です。そんなにいませんから」といわれたという。

 永氏自身もこの母親の事について「びっくりする手紙です」と紹介したようであるが、反面「きちんと残さないで食べればいただきますといって残すより良い」とか「特別にみんなでいおうというのはおかしい気がします。いってもいわなくても大声でも小声でもつぶやくだけでも、思うだけでも、良いことにしましょう」、「売り買いはビジネスですから、そこに『ありがとう』という言葉は入ってきません」などともいっている。このように、形を無視し、何でも自分流でやれば良いという考え方には非常に危ういものが感じられる。品格や思想は美しい形になって現れるものではないだろうか。

 宮崎県では昨年11月から、知事が会長となり市町村やJAなどの団体でつくる「みやざきの食と農を考える県民会議」が、農産物の恵みに感謝するのに最も分かりやすい活動として「いただきますからはじめよう宣言」を提唱し、「県民が食事の時にいただきますの言葉に乗せ、命の恵みを感謝する」などの方針を掲げているが、こうした公共的な組織が家庭で行うべき基本的な躾を強調しなければならないという状況も情けないことである。

 そして、「政教分離」の原則というのは、本来、特定の宗教団体と政治が関わり過ぎてはいけない、ということであるが、宗教的なるもの全てを排除すべきという風潮が蔓延り、永氏の言葉にもその片鱗が感じられる。手を合わせていただきますと言うこと程度が宗教的として排除されるならば、初詣、門松、ひな祭り、七五三、クリスマス、バレンタイン、盆踊りなども公共・教育の場から排除する事になってしまう。現に小中学校の旅行では神社仏閣を避ける傾向が認められ、七夕まつりまで規制するような場面もある。「起立・礼」も宗教にかかわるから中止したり、太鼓や笛を合図に食べ始め「ごちそうさま」もいわずに食べ終わったり、頭がおかしいのではないかと思えるような例は枚挙にいとまがない。一体、どんな怪物を育てようというのであろうか。
 そんな事をしていたら社会が成り立たない。「西暦」も「the Christian era」の訳である。生活・社会・文化など我々のアイデンティティを形成しているものは「宗教的なるもの」と一体である。いい換えるならば人間それ自体が生まれながらに「宗教的なる存在」であり、その彼我を切り離すことは不可能であるということである。

 基督教には食前の祈りはあるが、「いただきます」の英訳は「Let's eat」「I'm eating」、「ごちそうさま」は「I'm finished」など状況説明的ないいまわししかないようである。今や「カワイイー(kawaii)」が国際語になっているそうであるが、「いただきます」に代表されるこうした伝統的な美しい言葉こそ日本の誇るべき文化として輸出することこそ、日本がその倫理観・道徳観・文化で世界をリードする道である。軍事力や経済力では世界を幸福にできないことがはっきりしている今、必要なことはこうした倫理観による相互理解ではないだろうか。言葉は文化であり思想である。大切な美しい言葉を死語としないように次の世代へ伝えて行きたいと思う。

 神道の重要な言葉の一つに「慎み」という考え方がある。「身を慎む」「言葉を慎む」などと使うが、その本質は自らを超えた超自然的な存在(英語ではsomething greatという表現がある)・神・仏に対する畏怖・畏敬・感謝を忘れず、自らの卑小さ・弱さを自覚して身を慎む者にこそ神の真実(神垂)が現れるという意味を持っている。感謝の心を忘れた人間ほど哀れなものはない。
 ただ、振り返って思えば、我々自身必ず「いただきます」といっているだろうか。家でも一人で食事をしたり、外食や、会食の際や、コンビニ弁当を急いで詰め込む時にもきちんといえているか、我が身を正したい。

最後に笑い話を一つ。
私 「いただきます」
友人「えっ、ワリカンだろ」
私 「・・・・・・」
(宮司からの託け)

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